刀には、不思議な物語を持つものが多くあります。
粟田口一竿子忠綱(あわたぐちいっかんしただつな)と呼ばれる日本刀も、そのうちの一振りです。1784年、天明4年のことです。
3月24日の午後2時頃に、江戸の城中で刃傷事件が起こりました。
田沼山城守意知に、新御番である佐野善左衛門が突然斬りかかったのです。新御番は、警備の役割を持っているのですが、番所前を通ったのが田沼意知だと知るやいなや「佐野善左衛門で御座る、覚えが御座ろう」と叫んで、粟田口一竿子忠綱の脇差を抜いて斬りかかりました。肩口を斬りつけたところで意知は逃げ出しましたが、善左衛門はさらに斬り掛かります。
渾身の力を込めて突き刺しますが、手元が狂い太腿を刺すことに留まりました。しかし傷は骨に達するほどに深く、重傷となりました。
それからお目付け役である松平対馬守に見つかり、善左衛門は背後から羽交い締めにされて、持っていた刀をはたき落とされました。
すぐに善左衛門は牢屋敷送りになりました。その後に意知は怪我から絶命してしまいます。刃傷沙汰を起こした理由としては、善左衛門の生家は微禄であったために、田沼父子に引き上げて欲しくて金品を送っていた。しかし効果はなかった。
さらに山城守が、佐野家の七曜旗と系譜を見たいというので貸したが、返還をしてくれない。催促をしたが出入りを叱責までされた…という流れだと語ります。乱心していたとは言え殺人になるために切腹を命じられ、享年28歳でこの世を去ります。しかしこの直後から、高騰していた米の価格が下がり、庶民は大歓喜しました。善左衛門を世直し大明神と崇め、墓には参詣人がひしめきました。
この刃傷に使用した粟田口一竿子忠綱は米の値段とは反対に、驚くほど値段が上がったと言います。